「普通」とは何か

「普通」であると思うことも、逆に「普通」でないと思うことも、一種の思考停止だと思うのよ、私は。「普通」って何?

「普通」とは何か

2015年の今、日本は少しは進歩したでしょうか。「隣の家の息子さんのような」セクシュアル・マイノリティ像を違和感なく受け入れられる人は、果たして何パーセントいるかなあ。若い世代はずいぶん変わってきていると思うんですが、その親世代、祖父母世代ともなると、「普通じゃない」というステレオタイプから脱却できない人(つまり、どんなLGBT+を見ても『本当は普通じゃない』ということにして『普通である自分たち』と切断しないと気が済まない人々)がごまんといそうな気がします。日本のこのような状況を打破するには教育が必要だとレスリー・キー氏は指摘しており、あたしはそれに同意です。

「その親世代、祖父母世代」というのは私も含まれると思うが、実際それが「普通」と思えるかどうかと言われれば無理だと思う。

幸い私の場合は、身近にそういう人が何人かいて、その中には戸籍を変更した人とかもいる。身近なので「そういうこともある」と感覚的に思えるし受容もできるけど、「普通」と思えるかどうかについては無理かもしれない。これは社会的な「刷り込み」であり、よほど強烈な経験でもない限り、上書きするのは難しい。

だからそれを「教育」で何とかしようというのは(もちろん「これから」の若い人たちには有効だと思うが)戦術として難しいんじゃないだろうか。

でも、それを「普通」と思えなくても、(なぜ自身が「普通」と思えないかということも含めて)「理解」し「受容」することはできると思う。そしてそれが本当の意味での「寛容」ではないかと思ったりする。そうでなければただ「多文化主義的エポケー」に陥ってしまうだけで「寛容」には至らない。

社会は何らかの形で「普通」を定義し(かつ「普通」の名のもとに社会的包摂を行なわ)ないとまわらないし、その過程で争いもあるのだけれど、個々人が「普通」であると思うことも、逆に「普通」でないと思うことも、一種の思考停止だと思うのよ、私は。「普通」って何?