それは「寛容」ではなく多文化主義的エポケー
それは「寛容」ではなく多文化主義的エポケー
視点・論点 「同性愛への寛容性」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス
明治学院大学教授 石原 英樹 3月31日に東京都渋谷区議会で「渋谷区男女平...www.nhk.or.jp
明治学院大学教授 石原 英樹 3月31日に東京都渋谷区議会で「渋谷区男女平...www.nhk.or.jp
もう一つの批判は、さらに徹底的なもので、当事者に対する寛容はそもそも、対等な相手に対する共感や苦痛の理解ではないというものです。性的マイノリティ研究者の風間孝さんは、寛容性には、「あなたたちの存在を認めましょう、ただし私たちのテリトリーを侵害しない限りで」という「上からの目線」があることを指摘しています。例えばゲイのアーティストを素晴らしいと褒めても、同性婚には頭から反対する人がいます。それは同性婚が自分たちの結婚の定義を揺るがすからです。自分たちの世界をかき回さない、社会の役に立つ同性愛者ならいてもいいよ、という考え方が、寛容性に潜んでいるというのです。
それは「寛容」ではないし「寛容」と呼んではいけない。
イギリスの犯罪学者ジョック・ヤングの著書『排除型社会』ではこういう現象を「多文化主義的エポケー」と呼んでいる。
しかし、現在のように都市生活が多様化し、グローバル化したマスメディアが毎日のように多種多様な文化を垂れ流す状況では、もはや自然的エポケーは通用しなくなっている。こうした困難に対処する態度こそ、私が「多文化主義的エポケー」と呼んでいるものである。つまり、自然的エポケーの特徴である「懐疑の一時停止(あるいは〈括弧〉にいれる)」を、いわば多元化することである。この場合、それぞれの文化は、他の文化からみずからを区別するために、独自の排他的領域という〈括弧〉のなかに閉じこもろうとする。それはちょうど、それぞれの集団が、リスクを最小化するために、保険統計的計算にもとづいて物質的・経済的バリアを張り巡らせようとするのと同じである。
さらに
多文化主義のおかげで、人々は自分たちの選択を相対化しなくても、規範の相対性を受け入れることができるようになるわけである。……多文化主義における異文化への距離の取り方(「尊重」とか「寛容」という言葉でごまかしているが)が異文化への不安をつくりだす可能性は十分にある。というのも、それは戦後の包摂型社会に代えて、排除型の飛び地が点在する世界をつくりだすからである。……かつて近代主義が求めたのは、開放的で、「脱埋め込み」的で、両義的で、断片化された世界をつくりだすことであった。それは自己とライフスタイルを自由に選択し、創造することが可能な世界だった。しかし、多文化主義はそのような世界を消し去ろうとする――つまり、一方で多様性を認めながら、他方では行為者から選択の自由を奪おうとするのである。
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そういや、以前にも同じこと書いてるな、私(笑)